ロックダウン(都市封鎖)政策の中、わたしは子どの頃のことを思い出していました。こんなに多くの時間を手にしたのは、子どもの頃が最後だったからでしょう。毎日何もすることがなく過ごし方がわからない夏の日々。何かしなければ、とは感じていますが、何をしたら良いのでしょうか。自分ではどうしようもない未来を心配しながら、眉間にシワを寄せて疲れ果てて目を覚ます。どうなるのかが分からないことに直面し、子どもの頃のように無力で、思い通りにならない気持ちを感じていました。
当時、わたしはI-Spy(アイ・スパイ、『ミッケ!』)の本と共に外で長い時間を過ごし、家の近くの野原でジギタリスやチョウ、野ネズミやゴシキヒワ、ズアオアトリ、白黒まだらのブチ柄のポニーを探して過ごしていました。オークの木とトネリコやブナの木の違いを見分ける方法や、地面にあいている穴に動物が暮らしているのか、それともただの古い穴なのかを知るために長い時間をかけたりしていました。夕食の時間に家に帰るときにはいつも、鳥の骨や羽、後に動物の糞と判明したものを持ち帰ったり、ワラビの茂みを這い回ったり木に登ったり、巣穴を掘ったりしできたあざや傷と共に帰りました。
産業都市ストックポットのざらざらした郊外の町で育ったわたしにとって、視野や寝室の壁が狭すぎると感じたときは、深呼吸させてくれる場所でした。いくつかの住宅団地の間に残された細長い林が続く場所を通って行くあまり流れのない池や、リバー・ゴイット川を通り緑地まで続く一続きの農地で自由に過ごしていました。家の裏側には、水の流れによって地表面が削られてできたガリや、道路の終わりには、野原があました。そこは1980年代、高速道路建設のために緑地2箇所が確保されましたが、幸いにも使われずにそのままになっていました。秘密の友だちと現実の友だちが、この気ままな生活に付き合ってくれていました。わたしは、野性的で自由で、大胆で、冒険で、無謀な人になることを経験しました。人間の野生にはならないまでも、自然と一体であると感じました。夢中になって時間を過ごし、どこかで何者かになることを探していました。
何十年もの時を早送りして、今回のロックダウンまで戻ってきました。自分が誰で、どこへ、そしてどうやっていくのか?今もあの頃と同じように、唯一の答えは歩くということです。どこに行き、そこに着くかどうかは気にせずに、足を一歩一歩前に出すこと。それはわたしが知っている今できる唯一のことです。
歩きながら瞑想するに、ケンダルは最高です。この「オールド・グレイ・タウン」は、歩いて回るのに最適で、丘の中腹にへばりついている石造りの家々の間をごちゃごちゃした庭や路地が曲がりくねり、小高い丘の上には2つの城がたたずんでいます。東にはケンダル城、14世紀には、パー(Parr)一族もここで暮らし、ヘンリー8世の6人目の妻が生まれたところです。西にはハウ城があり、ケンダルの最初のノルマン人が建造した城の跡です。どちらからも街の素晴らしい景色を楽しめます。リバー・ケントのそばから始まり、町の公園や古くからの緑地を眺めながら、散歩に組み込むことができます。
わたしは町を見守る丘へ行くのが大好きです。お気に入りのヘルム山(185m)は、緩やかな丸い丘で、頂上には石器時代のヒルフォート(砦)があります。そこから北西には、ナットランドやオクセンホルム、ケンダルの向こうに広がる湖水地方の美しい景色を誇り、さらに南西にはモアカム湾が望めます。ヘルムへは5月が良い時期で、ハリエニシダとブルーベルが咲き乱れる丘の斜面には、満開のサンザシの木が点在していて、遠くには海へと続くケント河口の水がきらめきます。
5月に同じように美しいのは、サーペンタインの森の中の落ち着いたまだら模様の緑です。1824年にケンダルの人たちに与えられました 。ブナの木々の小さな実が敷かれた3マイルほどの曲がりくねった小道があり、トネリコやブナ、イチイやヒイラギが並んでいます。4月からは、香りのよいワイルド・ガーリックも楽しめ、大人にも子どもにも人気があるアルファベット・トレイル(アルファベットを辿りながら歩く小道)もあります。森の隣には「トラムウェイ」のルートがあります。そこは、過去に切り出した岩石を貨車に乗せて山腹から下の町まで運ぶために使われ、羊がいる野原や色とりどりの市民菜園、庭園、町から離れた家々の灰色の屋根の上を通っていきます。ここは、ケンダル・フェルを横切るたくさんある道の1つで、ケンダル・ゴルフ・クラブのフェアウェイに続きます。再びゴルファーたちが増え始め、フライングボールに注意するように歩行者たちに呼びかけています。最近までは、鳥や野生の花々、歩行者たちは敷地内を通ることができたので楽園でした。最初のロックダウンの8週間、ゴルフクラブが閉鎖されたときのことです。
ゴルフコースを過ぎると、ケンダルに長く住み湖水地方の有名なガイドブックの著者、アルフレッド・ウェインライト(1907-1991)によって「なによりも上を歩く、すべての一歩一歩が心地よい」と記述されている2つのスカーに続きます。石碑が頂上にあるクンズウィック・スカー(Cunswick Scar、207m)と、スカウト・スカー(Scout Scar、235m)は、それぞれ東に向かって少しずつ浸せきした石炭系石灰岩でできています。牧草地リス・バレーの向こうには、オールド・マン・オブ・コニストンや、スカフェル・パイク、ラングデール・パイクスなど、湖水地方最南端の山々の素晴らしいパノラマの景色を眺めることができます。
この数週間、子ども頃に家の近くの野原を歩き回っていたのと同じように、自然の中で没頭しました。目の前には仕事(これはツアーガイドの時間ではありません!)はなく、多くの人たちと同じように愛する人たちを心配しながら過ごし、3月から始まったロックダウン以降、花々からパワーをもらっています。町の公園や緑地、庭園、道端の水仙とクロッカス。その後はクサノオウや、細長いクワガタソウ、サクラソウ、タンポポ、ヒナギク、咲きはじめの紫色の蘭、キバナノキリンザクラ、花種漬花、スミレ、ブルーベル、ガーリック・マスタード、ケシ、シャク(香草)、とだいたいその順番で花々が咲きます。スピノサスモモの花は、桜の間に咲くセイヨウサンザシにスカウト・スカーの石灰岩の崖の上まで覆われています。「すべてが黄色く輝いていた」(コールドプレイ、“It was all yellow” Coldplayの歌詞です)ミヤコグサとホーリー・ロック・ローズ(ハンニチバナ)が西側に面した切り立った崖端まで覆うように咲いています。幽霊のようなねじれた形で大胆にスカーの上に生えているわずかな木々をからかうように吹き抜ける風が、そこに咲く花々をふるわせています。ヘルシントン・バロウに向かい、農場横の古い競馬場を経由してケンダルにゆっくりと戻る道に向かい、カッコウとノビタキ鳥のさえずりや、アーンサイド・ノットや遠くきらめくモアカム湾へと繋がるケント河口のすばらしい景色を楽しみました。
以前であれば、ヘルシントンを通り、サイザー城を越えてその先のストリックランド・アームズまで歩き、山の麓のビアガーデンでエールを一杯楽しんでいたかもしれません。一人のときや友達と一緒でないときは、ケンダルと周囲の山々を友人や湖水地方を訪れる方たちと共有するのが大好きです。湖水地方での休暇の始まりには、この玄関口の町を散歩して、すばらしい『遠い山なみの光』を眺めるのが一番です。湖水地方の見事な南部の山々を、敬意的な距離から垣間見ることができます。悲しいことですが、今ではありません。そしておそらく、この夏もそうではありません。
もちろんわたしは心配しています。確かに、コロナウイルスの危機で、愛する人を亡くしたり、自分自身や身近な人が病気にかかったりはしていません。幸運星に感謝します。でも、ちょうど3か月前には、その先6か月の予約がいっぱいの手帳があって9月には9人の学生たちが持続可能な観光スタディツアーにやってくることを楽しみにしていました。現在、この先ひと月の仕事がなくグローバル観光の崩壊を目の当たりにしています。カンブリア州の観光産業は、約30億ユーロ、そして65,000の雇用を地域経済にもたらします。わたしの仕事もその一つです。残念ながら、この指標は、世界的なコロナウイルスの危機が緩和されなければ、海外からの訪問者数が回復するに、数週間から数か月、ではなく数年かかる可能性があることを示しています。
現在この状況なので、わたしはイギリス国内や近場で休暇を過ごすステイケーショナーの皆様へもサービスを広げます。湖水地方で羽を伸ばそうとしているちゃんと家やそのそばで過ごしているイギリス人たちに。イギリス政府は、移動のときは車に乗るように命じているので、少なくとも当面は、公共交通機関の利用を促進すること(この仕事の存在理由)が無効になっていることは確かです。それでも、別荘やホテルが7月に再開された場合、訪れた人たちがB&Bに車を置いてでかけることを妨げるものは何もありません。歩いて行きたい場合は、わたしはここにいます。
結局のところ、湖水地方の環境や文学、文化遺産は、どこから来たのかに関わらず、きっと誰にとっても賛美されるものなのではないでしょうか。日本からお越しくださる人たちと、この地域の美しさを共有したいという夢を諦めるには時期尚早です。20年以上にわたり暮らした国の人たちのためにお返しをしたいです。でももっと対象を広くすることができるかもしれません。チャンスをとらえ、足がかり築いてそこで咲くということ。花々がわたしに教えてくれました。